西芦「マルゼン」斎藤氏の回想  by ashibetsu
西芦商店街大火写真
  →当時の新聞記事


思い出写真館26 北海道新聞2004年

「炭鉱が物価を監視」 斎藤正男さん(77)芦別市

西芦別町で洋品店「マルゼン」を開業したのは1955年のことです。
それまでは芦別駅前の父の店で働いていたのですが、
お客さまには西芦別町にあった三井芦別鉱業所の社員が多く、
「それなら西芦別へ行って商売をやってみよう」と独立したのです。
そのころの西芦別商店街は五十軒ほどの店が営業していました。
営林署関係の人も一部にはいましたが、お客さまはほぼ100%炭鉱マン。

店舗兼住宅は間口二間、奥行き三間ほどの小さな建物でした。トイレ、
水道も共同で、確か水道は、九軒で一つ使っていたと思います。
風呂は炭鉱の浴場に通いました。われわれも炭鉱の従業員と同じく無料、
で利用することができました。

こちらに来て驚いたのは、マチの中に三カ所の見張り所があったことです。
マチの外から物を売りに来る商人をチェツクしたり、石炭が盗まれるのを防ぐた
めのものです。炭鉱街ではだれでも商売ができるわけではなく、
われわれ商人は保護されていました。その半面、炭鉱には物価監視委員がいて、
商品の値段、鮮度、店の経営状態などをチエックされました。保護は
するけど、その立場を利用して市街の店より品質が劣り、高い値段で物を売った
ら「指導しますよ」という、いわぱ圧カのようなものです。

私の店を利用してくれたのは、炭鉱マンといっても本社採用の人たちでした。
東大など一流大学を出た独身の幹部候補生たちで、背広やコート、
ネクタイなどを買っていただきました。ボーナスが出た後にまとめ
て支払う人がほとんど。確か、一般の鉱員よりも彼らは多くのボーナスをもらっ
ていたはずです。
道外出身者が多く、彼らは服装にも詳しかった。「背広の襟に穴が開いているの
はどうして?」などと、こちらの知識を試すような質問をされることもしぱしぱ。
私も負けじと「あなたが口にした『青いワイシャツ』という言い方は間違い。
『ワイシャツ』は『ホワイトシャツ』という英語が日本語化した単語なんです
よ」と言い返したことも。
こうした打ち解けた会話は楽しく、皆素購らしいお客さまでした。

炭鉱マンらでにきわっていたそんな商店街が一夜にして灰になったのが、六四
年十月二十日の大火です。
東京オリンピックのマラソン競技が行われた日の未明、近くの商店から出た火
は瞬く問に広がり、約二時間後に鎮火する聞に32戸が焼け出されました。幸
いけが人はいませんでした。店の商品は裏口から運ぴ出すことができました
が、大切にしていた日本刀や写貞などは焼けてしまいました。

焼け出された商店街の人たちは、当時の三井芦別労働組合長の厚意で炭鉱従業
員の社宅に入ることができました。焼け跡に新しい商店街ができるまでの四カ月
半ほど、家賃、光熱費などはすべて無料でした。現在、西芦別商店街で営業を続け
ている店は当時の十分の一ほど。私の店も四年前に閉店しました。マチは寂しく
なりましたが、大火のときに受けた暖かい思いやりは、今でも忘れることので
きない思い出として心に刻まれています。
(聞き手・小池伸之)
-----------------------------------------------------------------------
さいとう・まさお1927年(昭和2年)京都市生まれ。
43年に現地の縫製工場に招かれた父親とともに中国・天津に渡り、44年に天津日本商業学校を卒業。
46年に帰国し、京都で土産物店などに勤務。50年に父親とともに芦別へ移り、
55年に芦別市西芦別町で洋品唐「マルゼン」を開き2000年まで営業した。
長く芦別郷土史研究会の活動に携わり、今年5月から会長を務める。99年に市政功労章受賞。



芦別市星の降る里百年記念館所蔵 (掲載許諾済)