緑泉
芦別物語厚床氏の緑泉のブランコ厚床氏の緑泉厚床氏プロフィール

はじまり
私が生まれた町は緑泉という。ホームページにも誓った緑泉、、、、旭町という。
最近、その景色、緑泉の全貌が映った写真があることを知り、譲ってもらった。私は、この写真を見たときの感動は忘れられない。この世にこのような写 真があるとは信じられなかったのだ。私の家と畑、親友の家、転校して送った女の子の家、5丁目広場、汽車の線路、配給所、中学校、緑町などが全て映ってい る。あの町は確かに、このような町だった、、、、二度と見ることができないと思っていたのに。
町の後ろには山が見えるが、実はその手前に大きな川があり、5丁目広場からなだらかに下って、川淵まで行くことができた。歩いていける様な道は途中 までで、あとは草むらである。坂を下り、道なき道を歩いて、河辺までいく。魚釣りなどしなかったから、どんな魚がいたのかは知らない。聞いた話では石炭を 洗った後、その洗浄水を放流したというから、あまりきれいな川ではなかったろう。川上へは行かなかったが、川下へは行ったことがある。川淵はどんどん狭く なり、切り立った崖になる。幸町あたりでは急斜面で崖から川を覗くような感じである。春先、草が生い茂っていない時に行ってみたいと思う。

旭町は1丁目から5丁目まであるのだが、写真の右上が5丁目、そこから左側が4丁目、木より左側に3丁目があるのだが、其れはよく見えない。子供た ちが遊ぶ広場は2丁目、4丁目、5丁目にあった。5丁目に私の家が映っている。その一軒おいて奥が幼馴染の家である。その幼馴染は画家になった。その家の 列の左側、1列飛んで2列目の一番奥が転校してきて、私と幼馴染が帰りに送った女の子の家ではないかと思うのだ。

昭和56年8月に、行った時、すでにこれらの家はなくなっていた。女の子の家だと思うところには土台らしきものが残り、ここに家があったことを物語 るばかりであった。旭町はほとんどなくなっていたと思う。5丁目広場が私の遊んだところである。広場にはブランコ、シーソー、鉄棒、砂場などがあったと思 う。

当時の家には畑が付いている。父は実のなる植物が好きで、リンゴ、ぶどう、梅などを植えていた。ブドウはよくなった。ブドウ棚の下を隠れ家のように遊ん だ。家のすぐ近くを蒸気機関車の線路があり、蒸気機関車はよく見た記憶がある。家と線路の間はやや盛り上がっていて、夏はバッタとり、冬はそりをした記憶 がある。しかし、この写真では線路が見えない。左は私と次兄、私は小学校2年生くらいではなかろうか。


写真の一番手前にある建物は中学校である。校舎の形から見て、旧校舎で、私が覚えている校舎ではない。無理もない。私はこの中学へは行かなかったの だ。兄は2人とも通学した。長兄が在学中に、文化祭で遊びに行った。生物クラブで子ウサギを見て、どうしても飼いたいとせがみ、1羽飼ったことがある。鶏 小屋に入れていたのだが、いつの時か、犬が入り込み、かみ殺された。遺骸は畑の淵に埋葬した。これが最初の動物の飼育だったかどうかは記憶が定かではな い、同じように亀を埋葬した記憶があるのだが、どちらが先なのか全く分からない。中学校のさらに左側に小学校があるのだが、この写真には映っていない。


中 学校の奥はグランドで、グランドを取り囲む道がわかる。写真の中央に路が見えるのだが、その道で切り取られる手前の町並みが緑町である。緑町の手前に中学 校の校舎から右側に伸びる白い線は路ではなく、豆汽車の線路ではないかと思うのだ。緑泉の川上には頼城という町があり、炭坑のほかに貯木場があったそう な。木材を摘んだ、小さな汽車が走っていた、其れを私と私の友達は豆汽車と呼んだのだ。豆汽車(電車ではなく蒸気機関車だったのか?)の線路は中学校の校 舎とグランドの間を走り、いま考えると変な組み合わせだと思う。
校舎の影になって、見えないのだが、豆汽車と線路と校舎の間に沼があり、泥んこ遊びやら、トンボとり、カエル取りをした。「中学校の沼」という。線 路と沼の間に山からの冷たい清水が流れる小川があった。豆汽車の線路寄り手前に、この写真には映っていないらしいのだが(子の字型の白い線が見える、これ が沼の周りの道かもしれない)、四角い沼があり、「中の沼」という。中の沼には中央に沼を2分する小道があった。やはりトンボとりの場所である。ギンヤン マはここでしか見かけなかった。

グランドの奥、やや左側に白い建物、そのほか右にも建物が見えるが、配給所である。今でいえば、スーパーマーケットだ。米や、魚や、八百屋、お菓子や、諸々、日常品を購入するところだった。HPの扉にある写真は配給所を前から撮ったものである。
文字通り、物が配給制だったころの名残だろう。配給所の裏に笹の原があり、キリギリスをとりに行く場所だった。昼休みに配給所の店員たちがバレーボールをしていたのを見た覚えがある。
配給所の左に木の陰になり見にくくなっているが、緑泉商店街である。購読していた「少年」を受け取る「池下さん」、床屋さん、アイスキャンデーを買う氷屋 さん、駄菓子屋の「中土井さん」、覚えているのはそのくらい。緑泉には駅があり、配給所はその向かい。中土井さんは駄菓子屋さんだったのだが、黒い大きな 犬を飼っていた。名前を「ムク」という。魚は食べないが、お菓子が大好き、という変わった犬だった。ムクはお母さんで、その子犬を我が家ではもらってき た。星座の名前をとり、「ベガ」という。シェパードを連想させるスマートな中型犬に育ち、父親の血統を受け継いだようである。もちろん父も、子も雑種だ。
昭和58年に緑泉へ行ったとき、中土井さんのおばあちゃんの家に泊まった。娘さんが小学校の先生をしており、父の同僚だったこともあるらしい。


緑 町は、親しい友達がいたのでよく行った。写真には映っていない右側に、緑町の独身教職員の寮があり、近くにカギ型の沼があった。「ピストル型」と称してい た。もう見る影もなく。沼はトンボとりなどでほとんど毎日行ったような気がする。また、沼には田螺がいて、食べてた人もいたと聞く。
独身教職員の寮から山の方へ登ると、広い不気味な沼があり、その淵を登って、クラスメートの家へ行った覚えがある。沼の山側は木々が生い茂り、日の当らないくらい沼なので、きみが悪かったのだと思う、河童でも出そうな、、、。




緑町の先(写真の右側が川下)は幸町、仲の丘というのだが、子供心に遠いので、仲の丘の景色は汽車に乗った以外1度しか見た覚えがない。仲の丘に2 つ鉄橋があり、そのどちらかの鉄橋で下を見ると崖の中腹に家があった記憶があるのだが、最近調べてみると、川淵にある会社のポンプ舎で、川の水を汲んでた らしい。地図でも崖の中腹ではなく、記憶違いらしい。

旭町と線路、道路を超えると緑町なのだが、緑町広場がある。遊技施設はなかった、バックネットはあったからソフトボールにでも使用していたのだろうか?記憶はない。
四角い木の枠が置いてあったが当時は何だかわからなかった。いま思えば、サッカーのゴールに似ている。当時サッカーをしているのを見た覚えはないから、ハンドボールだったのだろうか。
道路には左側がニセアカシヤ、右はやなぎの並木だったはずだが、そんなものは既になかった。
この道をまっすぐ進むと、左手に幸町をみ、中の丘へ行く。子ども心には中の丘は遠いところで、手前の橋のところで中の丘の炭住を見た気がするのだが、映像を思い出せない。もう、40年以上前のことだったのだ。

中学校の裏山は、山道だが、一度登ったことがある。あり地獄を取りに行ったのだ。山の中腹でもないが、見晴らしのいいところまで登ったはずだが、み下ろした景色の記憶はない。この写真のように見えたはずなのだが、、、、、、

小学校
小学校である。レンガ造りの堂々たるものなのだが、廃校である。
4年生まで過ごした。グランドは写真の左側にある。裏山はスキー場になった。グランドには山からいろいろな落ち葉や種が飛んできた。鳥の羽根の様な形をし て、付け根あたりに種があり、落とすとくるくる回りながら落ちるのを覚えている。私の記憶ではグランドは石炭の燃えがら、灰を撒いていたような気がするの だが、さだかではない。



もちろん正面に正門があるのだが、右側の後ろに裏門があり、山道を通学する生徒の通用門があった。
正門をはいった正面玄関の右側に北海道の形をした池があるのだが、この池を作るため、河へ行って、一人1個の石を運んだ覚えがある。
小学校の裏にどぶ川があり、そこで親友がサンショウウオの大群を掬いあげて驚いた。10匹以上いたのではないか。
父はこの小学校の教師だったのだが、ある事情で生徒数が激減し、根室へ転勤することになった。私が小学校4年生を終了した年である。1クラス60人、1学年6クラスのマンモス学校だったそうである。
レンガ造りの校舎は今も当時の面影を残し、人気もなく堂々と建っている。
小学校3年生の時の運動会、と記憶しているが、実はほとんど覚えていないのだ。4年生の時の運動会の練習は記憶している。この中に忘れ得ぬ人がいる。 父は自分のクラスはよく写真を撮り、夜徹夜で現像し、生徒には無償で上げていたらしいのだが、自分の子供の写真はそれほどとらなかった。朝、起きると、現像済みの写真をよく見かけた。カメラはマミヤシックス、カメラのことは知らないので、名器なのかどうかはしらない。
さすがに自分がどれかはわかる。映っている人が分かれば、いいだけだから、他の人の名前は書かない。といっても、「忘れ得ぬ人」以外に覚えている人は数えるくらいしかない。
この学年の時だと思うが、鉄道が機関車から、デイーゼルに変わることを習った。
自宅が緑泉の駅近く、家のすぐ横を線路が走っていたから機関車が蒸気を吐きながらゆっくり動くさまを鮮明に覚えている。
グランドは随分広い、夏はここでお祭りをしたのだ。盆踊りの記憶はある。
次の写真を見比べてみて、どう思い出しても同じ学年とは思われないのだ。3,4年生は同じ担任の先生だった。もうなくなっただろうから、名前を書いておこう。小山田先生というのだ。当時は独身で、緑町の独身寮にいた。生徒たちは大挙して遊びに行ってたらしい。
先生の両脇にいる女生徒を覚えている。私の記憶ではこれはどうしても4年生の遠足で、この地は川岸であるはずなのだ、昔からそう思っていた。しかし、ある HPの常連にの解説だと、川岸へ行く橋を渡る手前の空き地だという。そうなのかもしれない。ただ、この写真とは関係ないのかもしれないのだが、私には4年 生の遠足で川岸へ行ったと固く信じ込んでいた、、、、、橋を渡った記憶があるような気がするのだ。記憶違いかもしれないし、川岸なんて、それ以外に行った ことがない。頼城だって、駅周辺くらいしか、記憶がない。独りで遊びに行くようなところではないし。
遠足と運動会の写真は同じクラスメートには見えない。
3年生になる時、クラス変えを行うのだが、3,4年生の間ではしなかったはずである。ここも記憶があいまいになっている。
先日、父の遺品を整理しているとき、私の小学生の成績表が出てきた。前から見ていたのだけれど、改めて通知表を見ると、3年6組、4年1組となってた。 3,4年生でクラス替えがあったのだ。担任の先生は変わらなかったのだけれど。遠足はやはり4年生の時である、先生の両隣の女生徒を覚えている。向かって 左側の子が私の机の隣の子だった、右側の子も覚えている。これはクラスでちょっとした事件があったからなのだけれど、私には忘れられないことだった。仲良 し4人組だった。今一人の男子もいる。
映画とアニメ
二抗會館 正面  (HP芦別物語提供)
私の最も古い記憶は「ゴジラ」映画である。頼城には立派な映画館があった。この映画館の名前はつい、一昨年まで知らなかった。「二抗會館」というのだが、これも当時の人、地元の人ならよく知っていたのだろうが、幼い私の知るところではなかった。
映画館では料金を10円支払った。後年、父にきいたところ、「本当は9円だったんだよ、10円以上だと事業税がかかるから、だけど、誰もお釣りの1円なんか受け取らなかったなあ」
その日、私は風邪をひいていたのだが、どうしても見たいと母にせがんだらしい。母の背中でこの映画を見た記憶がある。以来、東宝の怪獣映画が私の趣味になった。映画だけでなく、床屋も破格の安さだったんだが、それも理由があってのことだとは根室に転校して、初めて知った。
 二抗會館 内部  (HP芦別物語提供)   映画はというと、ウォルト・ディズニーを欠かすことができない。記憶にあるものは「バンビ」と「ジャングルキャット」。バンビは始めてみたアニメではなか ろうか。ジャングルキャットはアニメではなく、実写の記録映画だけど、レーザーディスクで復元されるまで忘れていた。南米のジャガーの生態を紹介したもの だ。デイスクの絵柄を見て思い出した。
当時の記憶の中にアニメで、「兄妹が森の中で迷い、兄があっという間に木の檻に取り囲まれてしまう」シーンがあるのだが、ナンの映画かはわからない。物語 として、思い当たるのは「ヘンゼルとグレーテル」なのだが、ディズニーアニメに「ヘンゼルとグレーテル」は見当たらない。ビデオレンタル店に行くたび、デ イズニーアニメの棚を見るのだが、見当たらない。古いものだし、ディズニーアニメにあっても復活していないのではないかな。
国産アニメでは「白蛇伝」、「少年猿飛サスケ」、「西遊記」である。これらが東映アニメの始まりである。以後、東映マンガ祭りとしてアニメが作り続けられるのだが、あとはシンドバットの冒険くらいしか思い出せない。
レンタルビデオが出てきたとき、始めてみた「ゴジラ」は1作ではなく、2作目の「ゴジラの逆襲」であることを知った。
そういえば、ゴジラは氷漬けになる、、、、、そこは記憶がある。ゴジラ映画の3作目は「キングコング対ゴジラ」なのだが、ゴジラは律義に氷山を割って出現するのである。

*このページは故厚床氏HP「緑泉のブランコ」を広告をなくした
再現編集版です。スマホでも見やすいようにレイアウト変更しています。
保存の為、自主的に「芦別物語」のサイトに取込みさせて戴きました。
建築猫tama
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