さてさて皆さん、東黄金の炭神祭だよ。
子供神輿だよ。 ようやくこの頃、MSさんの助けを借りて写真の撮影方向が分かってきました。 それまでは???でした。 黄金の方、奮ってご返信下さい! 2012/10/06(Sat) 18:17:27 [ No.3884 ]
やっぱり黄金って少数派なんですねえ・・・。(T.T)
2012/10/07(Sun) 22:08:05 [ No.3885 ]
そうですね、今度地図の戸数に人数を掛けて三井黄金の総人口を出してみようかな・・。
数百人でしょうか。もう少し? 三井芦別地区の25000人に比べると 反応が少ないのは致し方ないでしょう。 我々は結構希少かつ貴重な作業をしているのです。 2012/10/07(Sun) 23:36:09 [ No.3886 ]
どこかで黄金の人口の数字を見たような記憶があるんですが、どこ
だったか思い出せません・・・。 児童数は何となく覚えています。 S44年、私が東黄金小学校に入学時の全校児童が120名程度。 閉山になったS47年には新入学児童含めて80名弱。 大体そのくらいの数字でした。 私の同級生は各学年で12〜13名で一クラス。 私の2年下の学年から複式学級になりました。 閉校時の児童数は転校後だったので分かりませんが、十数名?? 炭住以外も含めた戸数は100内外くらいでしょうか?? 一水荘には何部屋あったんでしょうかね〜?? 正に貴重な経験だったと思っています。 札幌含めた都市部出身者に当時の話をするのは楽しいですよ。 ほとんど自慢話です。w 2012/10/08(Mon) 09:42:42 [ No.3887 ]
一水荘って、やはり当初は単身者独身者の寮でしょうか、内部の様子も見たいですね。
炭神祭は露天坑でもやるのかなあ?? 9/29ですか、芦別市総合福祉センターで閉山20周年記念式典があったようです。 炭鉱OB会、炭鉱(ヤマ)の会が第30回で解散・・・ 2012/10/08(Mon) 14:40:51 [ No.3888 ]
一水荘には学校の先生も住んでました。
1年生のとき、担任だった安倍先生の部屋にお邪魔したことがあります。 質素な部屋に仏壇があって、戦争で亡くなったご主人の遺影がありました。 まだそんな時代でしたねえ。 そうか、あれは閉山の式典だったんですね。 たまたまそれを見かけたと。 何だか呼ばれている感じもしますねえ。 何せ私は怪談好きなものですから・・・。w 2012/10/08(Mon) 20:33:23 [ No.3889 ]
47年でもこんな風景があったんだねえ。
黄金というのは知らなかったんだけど、炭鉱祭なんてやってたんですね。 炭住が懐かしい。 2012/10/09(Tue) 15:30:13 [ No.3890 ]
黄金坑の閉山って、いつごろでしたっけ???
2012/10/09(Tue) 20:24:46 [ No.3891 ]
厚床(あっとこ)さん、お久しぶりです。
ところで炭神祭と山神祭は違うものなのかな?? 飴吉の頼城時代の記憶には、両方共ないです。西芦別ではヤマ(炭鉱)祭ですよね。 西中中退?さん、こんばんわ。 三井黄金坑は確か昭和47年閉山で、芦別鉱業(株)がそのあと新旭炭鉱黄金露天坑として3/22に操業してます。 トラック輸送が本格化してから、道路整備も進んだようで・・ 2012/10/09(Tue) 21:11:47 [ No.3892 ]
頼城、緑泉では炭鉱祭という言葉を聞いたことありません。
正月の獅子舞くらいしか記憶がない。 夏は小学校のグランドで盆踊り、 小さいとこでは会社がお祭りを主催する、 私の退社した会社でも工場祭がありました。 2012/10/09(Tue) 23:26:01 [ No.3894 ]
写真では山神祭というのぼり文字が目に付きます。
今のところ山神祭は1970年(S45年)以降の資料しかありません。 黒獅子もその頃からです。 という事は、1960年代に三井芦別を離れた我々の世代では 山神祭はまだ無かった?! 私自身も記憶ありません・・。 2012/10/09(Tue) 23:44:36 [ No.3895 ]
MSさん、祭りのコースとしては集会所から神社まで?
緑町のほうも回ったんですか? 2012/10/10(Wed) 20:05:57 [ No.3896 ]
え〜っ、炭坑のお祭りって無かったんですか??
そう言えば、西芦のときには覚えていないと言いますか、記憶がないです。 後から出来た行事だったんでしょうか?? >塊炭飴吉さん う〜ん・・・・。 結局最後の一回しか御輿担いでませんから、ルートは・・・。 若葉台の坑長宅でお菓子を頂いたのは覚えてますが、緑町まで行ったのかな?? 何せこの写真の存在すら今年まで知らなかったくらいですから、内容までは・・・。(^^;ゞ 記憶力が無くてスミマセン〜。 2012/10/10(Wed) 23:22:17 [ No.3897 ]
黄金は小生の生れ故郷であり、亡父が生前、芦別を離れてからも酔っ払うたびに昔話をしていた懐かしい街です。
小生の記憶では、昭和42年の自分が西小に入学した前後の頃に黄金は閉山になったと思っていました。 http://www.geocities.jp/shiverle/gyosei/jinko/heizan.html でも、その後も新黄金坑を経て新北振炭鉱に至る昭和47年まで採掘していたんですね。勉強になりました(^^ゞ http://ashibetsu.info/modules/xwords/entry.php?entryID=129&categoryID=18 2012/10/10(Wed) 23:45:48 [ No.3898 ] 2012/10/11(Thu) 21:17:53 [ No.3899 ] 2012/10/11(Thu) 21:32:38 [ No.3900 ] 2012/10/11(Thu) 22:01:32 [ No.3901 ]
ややこしいですね。まとめると・・・
昭和42年10月三井芦別黄金炭鉱閉山→三井芦別炭鉱の「新黄金坑」として存続。 昭和46年 9月「新黄金坑」を分離し、新北振炭鉱として開鉱(〜昭和47年8月 閉山)。 ・・・規模縮小でしょうか。 とすると、「新黄金坑」の閉山は昭和47年何月なんでしょう?少なくともこの山神祭の後ですね。 2012/10/11(Thu) 23:26:44 [ No.3902 ]
小学校低学年だったので大人の事情は分かりませんが、「新北振炭坑」という名称に
なったのは覚えています。 当時、道道から黄金坑方面へ曲がる”二股”のT字路に看板がありましたが、それを 立てたのが父でした。 今でも同じ場所に違う看板が立っているかも?? 坑内火災が発生した日のことは覚えています。 帰宅した父が入浴中に第一報が入り、父はすぐに支度をして会社へ戻りました。 その後なかなか帰宅せず、非常に不安を感じました。 閉山になるらしいという噂は、当時の情勢(炭坑の閉山が相次いでいた)から避けられない ものと思っていましたが、その日から現実となりました。 数日後、事務所のすぐ側にあった坑内員が徒歩で入坑する抗口に、川からポンプで水が 注入されているのを見たとき、子供だった私も「もうダメなのかも?」と思いました。 (ずいぶん後になってから父に聞いた話では、農繁期だったこともあり、川から取水すること 自体、色々と問題になったそうです。) それから一気に閉山へと加速し、運動会の後、6月の後半に芦別を離れることになりました。 今考えるとせつないですが、何故か当時は札幌へ出ることでテンションが上がっていました。w その後色々あって、やっぱり故郷へ帰りたくなりましたけれど・・・。 でも、故郷と呼べるところがあるのはホントに有り難いと感じています。 こうやって同郷出身という繋がりだけで、兄弟のように共有の記憶に関して会話することが 出来るのですから。 2012/10/12(Fri) 22:11:49 [ No.3903 ] 2012/10/12(Fri) 23:44:55 [ No.3904 ]
う〜む新しいカウンター設置後は息を潜めて、皆の邪魔をしないように見ていました。
西中中退?さんは東黄金生まれなんだ。生まれ故郷。 MSさん何ともリアルな話です。 そういえば今回のオフ会は中途転校組が多かったような・・。 卒業式誰かやって! ところで塊炭飴吉さんそのキャラは誰? 2012/10/13(Sat) 00:22:53 [ No.3905 ]
札幌のシンプルなお友達です。
昔のダッコちゃんに似ていませんか?なんとなく懐かしいでしょ?? 2012/10/13(Sat) 13:37:59 [ No.3906 ]
生臭い話でスミマセン〜。
私は中の丘生まれですが、その後西芦〜黄金と転居したので、 西中中退さんと逆の経緯になりますかね〜。 >塊炭飴吉さん 地元なのにそのキャラ見たことないです・・・。 ジブリの・・・・いやいや・・・。w 2012/10/13(Sat) 14:46:01 [ No.3907 ] 2012/10/13(Sat) 17:15:34 [ No.3908 ] 2012/10/13(Sat) 17:52:49 [ No.3909 ] 2012/10/13(Sat) 17:54:14 [ No.3910 ]
>西中中退?さん
そうです、この看板です! 当時「新北振炭坑」と書かれていて、父が、自分が立てた(塗った??)と話していました。 もちろん一人でやった訳では無いと思いますが。 4枚組のは左上が元町と事務所の中間くらいから見た選炭機遠景と下が抗口、右上が事務所の奥 にあったズリ山から事務所と選炭機方面で、下は恐らくそのズリ山の奥にあった巻き上げ機の 機械室跡ではないでしょうか? 最後の2枚はよく分かりませんが、右は川沿いにあった扇風機かな? 元町と事務所の中間付近、川がカーブしているあたりにありましたので。 閉山後1〜2年くらいの時期ですかね? この頃見に行きたかったです。 貴重な画像をありがとうございました。 2012/10/13(Sat) 20:12:55 [ No.3912 ]
『川沿いにあった扇風機』って、何に使ったのでしょうか???
2012/10/13(Sat) 20:35:06 [ No.3914 ]
皆「せんぷうき」と呼んでいましたが、正式名称は??
坑道に空気を送り込む設備です。 いつも大きな音がしていましたよ。 他の施設に入ることには鷹揚だった大人からも、絶対に近寄らないよう 言われていました。 やっぱり危険だったんでしょうね〜。 2012/10/13(Sat) 21:01:52 [ No.3916 ]
MSさん、ありがとうございました。
黄金生れの小生、三歳までを黄金で過ごしました。 その後は、母に連れられて知人(K村さん、S吾さん)の社宅へ数回、 芦別を離れる直前の昭和49年に兄と一緒に、小生が生れた社宅(空家で鍵も掛かってなかった)へ一回、 昭和55年に西中の村上邦雄先生のクルマで一回訪れたかな。 村上先生と一緒の時は、閉山後の植林を知らなかったので、 どこまで行っても林ばかりで社宅跡すら見つからず、道に迷ったのかと焦りました。 (旅行から戻って社内時報で調べて、社宅跡に杉が植林されたことを初めて知りました) 2012/10/14(Sun) 08:57:02 [ No.3922 ] |
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