どなたでもお気軽に! ↓の「新規投稿」からどうぞ

芦別物語 掲示板/2007-2017


[ 指定コメント (No.4379) の関連スレッドを表示しています。 ]

■ あしろう新聞闘争号外 投稿者:tama  引用する 
親から子供に全てが語られることが無かった真実。
それがここにあります。
じっくり読みましょう。
大量離職のきっかけとなった労使の闘争が描かれています。
bearさんの提供です。感謝!
bearさんは貴重な新聞記事を沢山お持ちです。

我が家もこの翌年に芦別を離れたな〜。
あ、個人的には最後のページの勤務時刻表が好きです。

2013/09/28(Sat) 10:20:59 [ No.4371 ]
□ Re: あしろう新聞闘争号外 投稿者:tama  引用する 
三井芦別を離れる前後の事はあまり皆さん触れたがりませんが
ここで一発、想い出を書いてみませんか。

芦別を離れてから苦労したこと。

私は小学校5年生半ばでしたが、千葉県市川市に越してきたら丁度1年分学習カリキュラムが進んでいた!
焦った、いきなりクラスでビリになった。学習進度の遅れた問題児扱いになった。
いつも放課後にはドリルが出来るまで居残りさせられた。

そして周囲の誰も北海道の炭鉱から来た少年の窮状を理解してくれませんでしたね〜。
一人ぼっちだったな〜しばらくの間。

放課後担任の先生に呼ばれていくと、〇〇君、北海道にいた方がよかったんじゃないの?

おのれ北海道の底力を知らんとか?

それでも1年も経つ頃にはカリカリに勉強してる千葉の進学校の生徒達より、
普通にやってる芦別の炭鉱の子供のレベルの方が高かったなと感じられるようになりました。
これぞ大自然の底力の差?

私の方が標準語に近く、千葉の地元は方言があって笑ってしまった。

親父はさっさと三井鉱山に退職届を出して、先に東京に来ていた同期のイトヤマさんの紹介?で専門外の小さな化学工業会社に就職。
いつも家に帰ると勤め始めた会社のことで愚痴を言ってたな〜。
あんな会社はさっさと潰れた方がいい、が口癖。
数年後に現実になったけど。

その家は山の手の炭鉱住宅とは比べようも無い小さな2DKの社宅。
真っ暗な廊下兼用の台所に6畳2部屋。
和室のどちらの窓もプライバシーも無く、窓の外はいきなり通路と隣地の万年塀。
暗くジメジメして屋根は崩れそうで、泣きたい毎日でしたね〜。
塀の木戸を開けると直前を車がビュンビュン通る、危険地帯。
北海道にいた時のくせでいきなり自転車で道に飛び出したら
ダンプカーに吹っ飛ばされた事もあったし。

それでも目の前の世界は刺激に満ち満ちて、凄まじい勢いで廻ってましたっけ・・・。

2013/10/02(Wed) 21:49:54 [ No.4373 ]
□ Re: あしろう新聞闘争号外 投稿者:  引用する 
私が転校したのは小学校4年生の終わり。
炭鉱が人員削減したんでしょうが、その結果頼城小学校は教員が10人余ってしまった。

父は当時の校長先生より根室へ行けば、校長になれる、と言われて、赴任を決意したとか。

日高山脈を越えると北海道では意識されていないが、表日本側、冬は寒いが、12月いっぱい雪は積もりません。
その辺が札幌のある裏日本型とは大違い、1月が過ぎるとどんーんと積もります。

桜は5月まで咲かない。

赴任先のストーブはマキストーブ、JRの最寄りの駅から4.5キロ山道を入ったところに父が初めて校長になった小学校がありました。
駅までPTAの会長さんが馬車で迎えに来てくれた。
馬車に揺られて、母とおにぎりの昼食をとりました。

何せ1キロ四方に家は一軒、人の数より牛の数のほうが多い根釧原野のパイロットファームでした。

小学校は6年生込みで31人、複複式学級で3学年同一クラス、つまり6学年で2クラス、6年生は私一人で、思ってもみなかった児童会長に就任しました。

私は校長としての父の初めての卒業生(第1生)で生徒、校長が親子だというのは北海道でも珍しいと道新に載りました。

それから7年、田舎の中学校(1学年1クラス)を卒業し高校へ、都会へ出たのは大学生になって札幌へ。

以来40年ぶりに中学校のクラス会に出てきました。
根室は7年間住んだだけですが、以来少年時代から青春時代を過ごした懐かしい故郷になりました。

緑泉と根室、、、また行くことになると思います。

2013/10/03(Thu) 23:15:26 [ No.4374 ]
□ Re: あしろう新聞闘争号外 投稿者:tama  引用する 
芦別を離れた人は皆バラバラな方向に向かったのですね。
札幌と東京、という様な大きく2極化出来ると思ってました。
皆さんも当時の想い出を書いてみましょう!!

2013/10/05(Sat) 16:50:00 [ No.4376 ]
□ Re: あしろう新聞闘争号外 投稿者:緑泉小僧  引用する 
私はいわゆる転出組ではないですけど、s48年19歳の時芦別から東京に出てきました。
東京に出てきてわかったこと
私がかなりの方向音痴だったということ(芦別では道に迷いようがなかった)
電車や地下鉄に乗るとき周囲の人はホームの立つ位置を気にすること(階段の近くとか電車のドアの近くとか)
三井芦別鉄道ではそんなこと全く考えもしなかった。
NHK朝ドラ「北の家族」青函連絡船のシーンが出てきて自分の上京とオーバーラップした。本田路津子の「耳をすましてごらん」
かぐや姫の神田川、そしてアグネスチャン、とても懐かしいです。

2013/10/05(Sat) 20:59:10 [ No.4379 ]

処理 記事No 暗証キー

- Joyful Note -
- Antispam Version -