deleted すけ 【2004/06/21 12:52:05】[返信][削除]
deleted


Re:もう1つの商店街 tama 【2004/06/21 17:45:17】[削除]
いらっしゃい、すけさん。
中の丘にはあと1軒、錦町にも2軒。
う〜む、さらなるもう1つの商店街ですか。
謎めいてる・・・。

商店街の場所分かる方、大募集です。はい。


Re:もう1つの商店街 tama 【2004/08/12 19:54:00】[削除]
すけさん、お待たせしました。
啓南商店街、地図に入りました。
大体の位置だけですが・・。
1985年住宅地図(岩粉撒き氏提供)版では商店らしきは畠山商店のみが残り、
他は個人宅に転換していました。

ここだけぽつんと店の跡が集中しているって、確かに往時の賑わいが想像できます。


Re:もう1つの商店街 tama 【2004/08/16 10:49:09】[削除]
すけさん、8月13日の投稿記録が残っていますが、
ご自分で削除されましたか?
それとも、当掲示板の誤作動でしょうか?

「耀風」のごく1部のコピーは私も持っています。
言及されている昭和25年の西芦別商店街は斎藤商店さんの記事でしょうか。
それは偶然私もコピーがあります。(岩粉撒き氏提供)
いつか今度載せたいな、と思っています。大変貴重なものです。
斎藤さんには手紙書かなきゃ。

「耀風」何とか原本を入手したいものです。
興味ありありです。
どなたかお貸し願えないでしょうか・・・。


Re:もう1つの商店街 すけ 【2004/08/16 15:22:28】[削除]
tamaさんへ
ご心配ありがとう。削除しました。
コピーの一部を紛失した為。
自分も、tamaさんと違う角度から三井芦別に興味をもつています。接点が多々ありますが、これからは、情報等の交換発表しましょう。出来れば、スバルさんも、この場に参加してもらいたいですね。でも彼も自分の場を持っているからね
自分としては、あと二、三年かけて資料の収集に努めるつもり。



Re:もう1つの商店街 tama 【2004/08/17 21:19:20】[削除]
すけさん、芦別への関心の方向が多少異なっても、
失われた旧三井芦別にたどりつく方法は同じ、
想い出だけが道案内ですよね。

これからも情報交換よろしくお願いします。
すけさんの方が芦別に近いみたい、うらやましいです。


Re:もう1つの商店街 wakakusa 【2005/02/04 21:58:24】[削除]
生まれてから昭和38年迄、13年間中の丘に住んでいました。中の丘駅前には当時駅側から「林呉服店」「増田商店(文具・雑貨)」「岩本商店(食品)」「小野寺商店(食品)」の4店舗があり、床屋は錦町の集会場から2〜3軒前方に玉木と言う床屋が有りました。配給所は最初錦町に有りましたが若草町の上に移りその後に集会所が出来たのです。
集会所の初代管理人は上田さんと言う優しいおばさんでした。


Re:もう1つの商店街 tama 【2005/02/05 11:16:10】[削除]
wakakusaさん、この掲示板では始めましてですね。
中の丘3人目のお客さんです。(今度、地域名簿つくろうかしらん?)

私より3歳年上でしょうか。
中の丘小学校、商店街、集会所、etc貴重な情報ありがとうございました。miyawakiさんとも確認済みです。
順次、加筆訂正していきますね。ありがとうございます。


Re:もう1つの商店街 miyawaki 【2005/02/06 21:57:47】[削除]
中の丘駅前商店街ですか。
中学になってからは、バス通だったので駅までは行くことがなくなりました。小学校卒業までは、小野寺商店、林呉服店、高岡文房具店と履物屋がありました。高岡は入れ替わりです。その前が増田だったんですね。子供心に林呉服店と履物屋には客がいるのを見たこともなく・・・心配でしたね。高齢の方ばかりだったように記憶してます。小野寺商店のおばさんは覚えています。床屋は小6の終わり頃ボウズにするために行きました。中学はボウズでしたからね。高校のときも一度行きました。行ったのは二回ですか。ほとんど西芦の森下理髪店でした。
岸本理髪店は何もかも古臭かったから、敬遠したんでしょう。
それまでは、親と西芦に行った時に森下理髪店でやってもらいました。従業員も数名いて明るく近代的でした。38s頃までは玉木理髪店だったんですね。スキー場の前に朝賀商店1件ありました。
バス停の前に配給所、そんなとこですかね。


Re:もう1つの商店街 tama 【2005/02/07 12:48:00】[削除]
miyawakiさんからいただきましたっ!有難うございます。
中の丘小学校の校庭の写真3枚。
中島もはっきり全容が写ってます。

頼城に住んでた方から
中の丘小学校が幼稚園の遠足地だった、という話を聞きました。
この中島でしょうか??


Re:もう1つの商店街 miyawaki 【2005/02/07 12:57:05】[削除]
幼稚園の遠足地に中の丘小の中島ですか?あ、あぶない。
幼稚園の保母さんも大変だったでしょうね。

旅愁 buru 【2005/02/04 16:05:11】[返信][削除]
始めまして!keiziの兄です、たまさん始めまして何時も楽しく拝見しています、それと「故郷」良い響きです。
先日来よりkeiziに急かされて、探し・・・探ししたが未だ昔の写真集が出てきません、気長にお待ちください。
昨年40数年ぶりで「故郷・旅愁」に出かけてきました。
変わり果てた「故郷」の地に立ちしばし昔の面影を思い出し懐かしくも悲しい思いに慕って来ました。
でも「故郷」ってそんなものでしょうね!面影が重ならない思いも遠い過去の思いとすれば何故か納得してしまうのが、ふ・る・さ・と なんですね〜!

この「たまさん」のページは凄いですね!。思い出を閉じ込めないでこの場所にどんどん書き込みをすれば何時でも「故郷」に旅が出来ますょね!これからどんどん書こうかな?なんて思っています、宜しくお願いいたします。
私は昭和19年の生まれです、中学3年の時に東京に出て現在は神奈川に住んでいます。長くなり申し訳有りません。


Re:旅愁 tama 【2005/02/05 11:11:15】[削除]
はじめまして!
お兄さんですね。昔の写真、みつかるといいですね。
「故郷」「郷愁」って、私にとっては当初ものすごく濃密でどろどろしたものだったのですが、
このページを続けてバーチャルトリップを繰り返す内に、
さらさらとした、薄い靄のようになってきました。
きっと、多くの郷愁エネルギーが回収され変換されてきたのでしょう。
でもそれはまた違った形で、芦別に対する「思い」になってきましたよ。
これからもどうぞよろしく!

多分...ですが... 西中中退? 【2005/02/01 23:52:33】[返信][削除]
東京でのストライキの写真拝見しました。
奥の時計台のある建物が建替え前の大和銀行(現在の野村ビル)だと思うので、大手町の日本興業倶楽部の前の通りを東京駅側から写したものではないでしょうか。


Re:多分...ですが... tama 【2005/02/02 13:16:55】[削除]
う〜む、いい感じです。これでしょか?



Re:多分...ですが... tama 【2005/02/02 13:38:26】[削除]
するとすると、日本工業倶楽部会館前で座り込みしているのでしょうか?
http://www.geocities.jp/mot3/arch/arch22.html


Re:多分...ですが... 西中中退? 【2005/02/02 21:41:03】[削除]
小生の知る限り、都内で写真の並び方で銀行の並んでいるところはこの場所だけです。
写真の第一銀行は現在、丸の内センタービル内のみずほ銀行になっていて、上階にはみずほの持株会社であるみずほフィナンシャルグループが入っています。(子会社であるみずほ銀行の本店は内幸町です)とは言っても、写真の中の三和銀行が、現在の地図では系列の東洋信託銀行となっていることに不安があるのも確かですが。この地域には経団連等々、経済界を代表する団体の拠点がひしめいています。
まあ、昔のことなので想像するしかないのですが。


Re:多分...ですが... tama 【2005/02/04 10:32:11】[削除]
西中中退?さん、かなりの確率の有力案です。今度書いておきますね。
それと遅ればせながら、西中体育大会のプログラム掲載いたしました。
あわせて、有難うございました。

発見! tama 【2005/01/20 20:50:02】[返信][削除]
以前、中の丘で話題になってた芦別川の化石
http://page.freett.com/purapito/asibetu.htm

芦別の北海道地域掲示板
http://www.junlab.com/forums/hokkaidou/25/
以上でした♪。


Re:発見! miyawaki 【2005/01/26 12:30:42】[削除]
中の丘の川原で私も拾いました。
授業の一環?で川原で化石取りをしましたね。
高さ40cm、幅30cmの木の化石を拾いました。担任の先生に譲って欲しいと必要にせがまれたけど、頑なに断りました。
また、先輩から二枚貝そのものを頂きましたね。ホッキ貝というのか巨大アサリというのかは解りませんが、10cm位で余計なものが付いていないその物を。
他のものも小さい木の化石が多かったと思うが採取してましたね。
今では水が綺麗になったせいか鮭が上がってきて取に行く夢を見ます。(笑い)


Re:発見! tama 【2005/01/27 19:13:26】[削除]
芦別川でとれたかどうかは分かりませんが、
アンモナイトという名前を覚えたのも小学校3年くらいです。
巨大なそれを見たのは、多分三井の社員旅行の温泉旅館のホールで。

中の丘で育った人には特別なギフトがついていたのでしょう。
鮭の稚魚を放せばほんとに戻ってくるかも??

見つけてきました。 keizi 【2005/01/16 09:37:40】HomePage[返信][削除]
昨日兄のところで古いアルバムから西芦別の駅前の写真と小学校の先生たちの写真を見つけ、また中学校の校舎の写真を見つけました。
よかったら私のブロブに貼り付けてありますので覗いて見てください。
http://keizi.jugem.jp/
また青沼の件ですが、どうしても特定できないようです。
記憶とは本当に曖昧なものです。兄弟二人でも意見が全然違ってしまいます。
ただ三笠ノ沢は知っておりました。


Re:見つけてきました。 tama 【2005/01/17 17:43:31】[削除]
keiziさん青沼の件ではご苦労様でした。
とりあえずBと言う事で、地図にはそのままおいておきます。
芦別市の公式HP掲示板にもありましたが、イマイチはっきり特定できません。
やがてもっと近所だった人が現われるかも・・・。

西芦の写真拝見しましたよ。
貴重な写真、発見ですね!。

”オッコ シシ マンジロ タカネノビンカイ”の件 北村 邦夫 【2005/01/16 20:49:38】[返信][削除]
幼い悪がきの頃 仲間内で標記のコトバを連呼してはやしたてたことがあった(ように思う)。オッコというのは汚れてテカテカになった丹前かなにかを着た腰紐姿の男性で住宅地や商店街を時折徘徊することがあって世間の無遠慮な視線を浴びたものらしい。腐った魚か何かを拾って喰ってやがて死んでしまったという伝説があった。シシとマンジロというのがどういう人物なのか全くわからないが ”高根から空き瓶を買いに来る女”には何度か会ったと思う。一升瓶いくら4合瓶いくらというふうにお金を払ってくれたものらしい。どんな地域社会でも異人奇人に畏敬の念を払ったものだという民俗学の報告を待たなくとも あの頃のわが貧しき社会への愛着をこめて発明された伝説らしい。芦別にはほかにもこの種の表現があったのだろうか。


Re:”オッコ シシ マンジロ タカネノビンカイ”の件 おい 【2005/01/16 22:32:32】[削除]
 僕も良く言いましたよ!
特に喧嘩の負けた後、相手に怒鳴って逃げたものです。マンジロの次にチョスケというのも入っていたように思います。
 こういう悪い言葉は誰から教わったかサッパリわからないが、近所の友達と遊んでいた頃を思い出します。

玉川、川岸 tama 【2005/01/15 18:52:28】[返信][削除]
ついに描いてしもた。川岸の地図。
とほほ、今日は仕事しに、出てきたのに・・・。
やってしもた。1964年当時の資料なぞ全く無いので
とりあえず、1985年頃の住宅地図の川岸と
1974年の地図の玉川を合体させてみた、と不思議不思議
1964年風の地図が違和感無く出来ちゃった。

ま、さほど建物が無いので何とかそれらしくは見える。
今は無き西芦橋、すばるさんとこに写真があったような。

ところで頼城の南端に「西芦橋」があり、
西芦の南端に「頼城橋」があるって??どうしてでしょ。

青沼について keizi 【2005/01/07 18:08:36】[返信][削除]
ジャンプ台と青沼の位置なのですが、私の兄と話をして大よそ位置が判りました。
西芦小のグランドからの土手を登り、鉄道の線路を跨いだところに道があり、そこを山に向って進んで行くと左横には三井芦別のスキー部の宿舎があり、その裏手に練習用の小さなジャンプ台(30Mクラスと思います)がありました。
そこからまたもと来た道に戻り、二股に分かれれるような道があり右側を行くと小さな坂になりそこを登り直ぐに下ると大きな沼に当たります。
これが私たちの言っていた「青沼」と言います。
兄の話でこの沼の謂れは青苔が多くあり、沼全体に緑色していた事からそう言われていたらしいと言うことです。
その沼を左手に見て山の奥に進んで行くと左手に大きなジャンプ台が見えて来ます。
沼全体の大きさは判りませんが、子供心に相当大きな沼であった思います。
またジャンプ台は公認のジャンプ台で当時は宮様大会など行われ、私の兄たちも小学生の頃前走としてこの台を飛んだそうです。
まだ子供だった私は前述の練習用の台で、世界選手権にも行った事のある堺選手や杉山選手にジャンプを教わった事あります。
三井芦別の選手たちは皆子供に優しく憧れの的でした。
思い出すと自然に涙が出そうになります。
少し私情をくわえ兄と話した事を伝えます。


Re:青沼について tama 【2005/01/07 19:43:12】[削除]
keiziさん、大変詳細なご説明有難うございます。
私はよく分かりませんが、もしかしてこれでしょうか?
岩粉撒き氏提供の芦別都市計画図1983より



Re:青沼について keizi 【2005/01/08 08:02:09】[削除]
この図面に間違いないようですね。
沼の先が谷間になっていてそこがジャンプ台のあったところと思います。
中々谷間の見える図面が無かったので、これでよく判ります。
私のところには昭和25年頃の図面が従兄弟から貰いありますが、これには沼の位置が判らず特定できませんでした。
ありがとうございました。
思い出すとこの「青沼」にはアオダイショウの巣があり、子供たちはフルチンで泳ぎこれを追いかけ、捕まえてくるのですが、私はこれがいつもいやで、逃げ回っていました。
ある時私の首に捕まえてきたアオダイショウを撒きつけられ、それからと言うもの蛇は大嫌いになりました。
ちょっと余談でした。
地図を見せていただき感激です。
これからも何かとお世話になりますので、よろしく!
兄にも話しておきますので、兄も尋ねた時にはお願いします。でわぁ・・・


Re:青沼について tama 【2005/01/08 11:57:47】[削除]
よかった!あってましたか。今度たまの地図にも書き加えておきますね。
ジャンプ台と青沼は今まで謎でした。
ほんと、私は多くの人に助けられてます。
有難うございました。お兄様もどうぞ遊びに来てください!


Re:青沼について tama 【2005/01/14 20:11:11】[削除]
ジャンプ台の位置が分かりました。三笠宮殿下が来芦した際に
名づけられた「三笠宮コース」と言うのだそうです。
するとすると、青沼の位置も少し変わってくるような気がします。

三井芦別地図(1957年星の降る里百年記念館提供)です。



Re:青沼について keizi 【2005/01/15 10:46:44】[削除]
記憶にはジャンプ台の形や位置的にはぴったりなのですが、青沼の位置がどうもBのような気がしてなりません。
本日兄の所へ参りますので、二人でこの位置をじっくり検討させていただき、史料も探してみたいと思っております。
結果連絡します。

病院の平面図 ケイセイ 【2005/01/12 00:33:52】HomePage[返信][削除]
 ケイセイです。病院の平面図。懐かしいです。
山野から西芦にきた最初の冬、病院に行くのに戸締まりに神経質な母を待つあいだに、
虚弱体質だった私は体が冷えてしまって、朝日ヶ丘の北の端の家から病院までの距離を、
泣きながら歩きました。手も足も感覚が無くなったのを通り越して、骨の芯に鈍い痛みが走ってました。
 小児科の脇のベンチに手足を押しつけて、ベンチのしたのスチームで暖めました。
次第に感覚が戻ってくると、まるでペンチで骨を砕かれるような痛みがあって、だただ泣きじゃくりました。
 薬局前の待合室の窓からは上芦別側の山にジャンプ台があって、ジャンプの練習をしているのをぼんやり見てました。
 耳鼻科は鼻が悪かったので通ってましたが、綿棒を鼻に指すのが下手な看護婦さんがいて、その人に当たると悲劇でした。
 図にはありませんが、入院棟は新しかった頃、父が肺炎で入院したときお見舞いにいったことがあります。
 病院の廊下はよく滑って、スリッパで思いっきり走って滑るのがおもしろかった。怒られたけど。
 確かに病院は遊び場でした。正面玄関の車寄せが好きだったんですが、1972年に訪れた時は 既になくなってました。病院は思い出のつきない場所です。


Re:病院の平面図 tama 【2005/01/13 19:07:48】[削除]
正直、病院の図面がみなさんの追憶にどれだけ役立つのか
不安でした。
おいさん、ケイセイさんのコメントで勇気づけられました。

描いてて、驚いたのはその巨大さ。
病棟が延々と続き、図面のスケールが追いつかない?
という変な体験をしました。
あの時代に、芦別という小都市で、これだけの大病院!
という印象でした。
二坑病院の方も描こうかな〜〜。


Re:病院の平面図 おい 【2005/01/13 21:54:42】[削除]
 消えた病院が戻ってきましたね!
正確な図面だと思います。曖昧な記憶が映像になって思い出させてくれる、素晴らしい「お年tama」ですね!
 病院の平面図を見たあとケイセイさんの写真集(時々訪問させていただいております)おまけ152「病院前のとおり」を見ると、景色が昔そのままで、子供の姿で三井の我が家に帰りたくなりました。