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そ、それはどうだろう・・? ささりんどう 【2003/09/28
09:08:51】[削除]
実は神聖ローマ帝国史と日本史、郷土史が趣味で、今の本業が都市計画のりんどうです。
う〜ん、よく言われている話なんですけど、どうかなぁ?
風水やレイラインは否定しないんですけど、この国で語られる風水は、ほとんどアレンジが入っているしなぁ。
さて、日光ですが、家康が「ここに葬れ」と言ったと明記しているのは、徳川実記だったと思います。
何せ、幕府の公式記録で、しかも一次資料といっていいタイミングで記録されているのですが、最大の欠点が「政治的配慮による事実の隠蔽」で、信康切腹や吉宗就任など、この点でぼかされている記述は多いのです。
最近、この点の注目が多くなっていますが、家康と秀忠は、以前に思われていたほどよい関係ではなく、政治的対立が激しくあったと考えたほうが良く、結果、家康は駿府久能山に自分の廟所を置き、死後自分の与党にそれを守らせ、もって駿河を反秀忠の本拠にしようとしたと考えるのが妥当ではないでしょうか。日光への移転は、駿河の国主だった家康与党の頼房を、秀忠が強引に紀伊に移したタイミングと合っており、この点、日光の伽藍は家康の配慮ではなく、政治臭がぷんぷんする事件に思います。
では、なぜ日光か、という点については、政治的理由の前には二番目の理由でしょうが、呪術的な鎮めよりも、北方への備え、すなわち対伊達・佐竹・上杉の哨線と考えたほうが良さそうです。源平合戦以来、寺社は有力な戦闘拠点となり、上野の立地についても、当時の江戸のまち割り上の理由と安全保障の面から説明できるでしょう。
ひどい本になると、「さらに半蔵門は裏門の結界として忍者だった半蔵の霊力に・・・云々」って続くのもあって、それも結構まじめな本で・・・。服部半蔵の履歴くらいきちんと調べてから書くべきなんだけどなぁ・・・。立川文庫のイメージのまま書かれてもなぁ。 |