屋根の上の写真シリーズ3、最終章です。MSさんプレゼンツです。
建物の多さを忘れて着色を始めたら、やっぱり多すぎて手に負えなかった・・。 屋根を金属っぽく見せようと焼付け処理したら濃くなりすぎたし・・。 GOTOさん、ミニクラブのローンの様子ばっちりですね。 2014/11/01(Sat) 16:07:46 [ No.4896 ] |
お待ちかね!
一碧荘に住んだことのあるお父さん達に捧げます。 皆さんはまだ生まれたばかりの頃でしょうか? なぬ生まれる前? この巨大な独身寮はお父さん達の多くの想い出を詰めたまま 消えていったのでしょう。 一碧荘、いい名前ですね〜。 MSさんプレゼンツでした。 2014/10/25(Sat) 11:27:21 [ No.4890 ]
私の父はこの写真が撮られたときには、結婚のためにすでに退寮していました。
生まれる前かどうか? かろうじて『前』ですわ〜(笑)。 2014/10/25(Sat) 22:21:10 [ No.4891 ]
そうですか、写ってませんでしたか〜
残念。 2014/10/25(Sat) 23:47:43 [ No.4892 ]
予想してましたが、写っていませんでした。
管理人さんも含めて60から70名程ですね。技術系でしょうか・・・ 2014/10/26(Sun) 14:06:54 [ No.4893 ]
MSさんのお父上も3枚中1枚にしか写っていません。
全員集合!という訳でも無かったのでしょう。 残念! 2014/10/27(Mon) 17:32:03 [ No.4894 ] |
第1弾は芦別市百年記念館提供の東3条5丁目から見た南側外観です。
この左に駐在所があったのでしょうか? このあとMS氏の父上が写した大量シリーズへと続きます。 初代から住んでいて一際愛着があったのでしょう、一碧荘を沢山写されています。 次回はMS氏提供の屋根の上から見た東3条から東2条の街並みです。 2014/10/05(Sun) 15:37:30 [ No.4881 ]
お約束の一碧荘屋根の上シリーズです。
提供はMS氏、撮影はMS氏の父上です。 一碧荘って、東1条から3条までの住宅のほぼど真ん中に位置し ここに上ると炭住街がぐるりと見渡せたんですね〜。 想像するに西芦神社側から見た俯瞰図は多々ありますが、逆方向は無い! そこで一碧荘の屋根に上って写してみた! どうして高価なカメラを持って急勾配の屋根に上ったのか 真相を聞いてみたいです。 2014/10/12(Sun) 18:06:59 [ No.4884 ]
山々と、屋根と炭住の並び、いい写真ですね。
私の母方の実家がもともとは東3条5丁目です。 母の兄弟姉妹がそれぞれ結婚独立して後、東2条3丁目へ転居したようなので、 この撮影年代が昭和32年頃だとすると、微妙です。ですが、 7年寮生活の親父はたぶん昭和31年まで一碧荘に居たので、MS氏の父上と面識あったかもしれないなあ。 2014/10/13(Mon) 16:12:11 [ No.4885 ]
父は学生時代器械体操をしていたので身軽だったのだと思います。
って、あんまり関係ないかも知れませんね。w 機械屋だし高いところは苦にならなかったのでしょう。 息子の私は高所恐怖症ですが・・・。w 父は昭和32年まで一碧荘に居たはずですから、恐らく塊炭飴吉さんの お父様とも顔を合わせていたのではないでしょうか? でも、あの大きさですから一体何人住んでいたものやら? 実は一碧荘の集合写真等も残っています。 確かそれも芦別へ持参したはずですから、お二人は目にしているかも? 2014/10/13(Mon) 16:56:18 [ No.4886 ]
一碧荘の集合写真、昭和30年から32年の3枚ちゃんとありまっせ。
今回のシリーズで載せます。 確かmikiさんの父上も在籍していたそうな。 結構、知り合いも写っているかも。 2014/10/13(Mon) 21:25:30 [ No.4887 ] |
以前にもお知らせしましたが
この掲示板は携帯からも見られるモードを持っています。 携帯からWEBに接続し http://aatama.saloon.jp/joyful272/joyful.cgi と入力すると、自動的に携帯かどうかを判断し専用のモードで立ち上がります。 旅先では重宝します。 記事の投稿も自由です。ただし添付ファイルは使えません。 スマホ?分かりません・・・。 どうぞよろしく。 2014/10/01(Wed) 00:03:02 [ No.4880 ] |
芦別の八重樫さん
http://www.youtube.com/watch?v=lyKrZGIy6Pc 他にも捜してみよう! http://www.youtube.com/channel/UC5g84O7jv0YqLp8t_q_pS4w 2014/10/05(Sun) 21:02:54 [ No.4882 ] |
直接写真を送っていただきました。
kagemaruさん大変ありがとう御座いました。 内容を吟味させていただき今回は仲町11丁目の写真を掲載させて戴きます。 ご本人の顔の辺りに白飛び劣化現象があるため、補正しましたが不完全です。 私の腕ではこれが限界です。 人物は難しいです。建物は得意ですが。 仲町の配給所が初お目見えで写っているので採用させていただきました。 この頃は未だ藤井歯医医院の建物は無かったのでしょうか? http://aatama.saloon.jp/ashibetu/21th/ashibetu-raijyo-hujii.html 半世紀前に風景建物写真が一般家庭で撮られることはまず無かった訳ですから、 その中から選りすぐって送っていただき感謝いたします。 2014/09/27(Sat) 23:38:45 [ No.4873 ]
藤井歯科医院は、昭和何年に出来たのか覚えていません。
私は昭和37年頃に東町6丁目から仲町11丁目に引っ越して 来たと思います。 その頃は、まだ藤井歯科医院も浅沼内科医院も無かったと 記憶しております。 2014/09/28(Sun) 11:17:38 [ No.4874 ]
頼城のこの辺の状況は言及する方もいなくて1964想い出地図もそのままになっていました。
今回、kagemaruさんのおかげで地図情報が増えそうです。 昭和36年、1961年の坑外地図がありましたので 添付します。 提供者が思い出せない!岩粉撒きさんでしょうか? 表記の数字は地番でしょうか?公図のような表現になっています 二坑分院の表示もないし・・。。 2014/09/28(Sun) 12:19:03 [ No.4875 ]
推測ですが、
二坑分院は私が芦別を離れる二ヶ月程前に閉院なので(昭和38年9月)、 それまでは分院の内科・歯科へ通ったと思います。 藤井歯科医院も浅沼内科医院も、その頃又はその後開業ではないでしょうか?? でも昭和36年の坑外地図に分院表記がないというのは変ですね。 2014/09/28(Sun) 20:13:50 [ No.4876 ]
私もよく解りませんが、4-46・4-47・4-51とかは地番
でしょうかね? □枠の4-31は、おそらく仲町配給所だと思います。 二坑分院は、地図上に頼山荘が少し見えていますので もう少し右側(頼城小学校寄り)の場所に、建っていた かと思います。 2014/09/29(Mon) 09:28:13 [ No.4877 ]
ほ、ほんとだ、分院はもっと右側(北側)でした。
私がこの分院に行ったのは昭和35年、右肩鎖骨を骨折した時でしょうか。 分院に行く為に、学校を休み緑泉幸町のバス停から母と一緒に乗ったのを良く覚えています。 2014/09/29(Mon) 10:48:06 [ No.4878 ]
ベア25年生まれ。
写真名前は思い出せないけど見覚えのある人物がいます。 二鉱病院は閉鎖直前で、昭和38年6月盲腸炎で一鉱病院に入院しました。 盲腸の手術は一週間の入院抜糸が一本忘れられていました その後歯科ができました。 tamaがメールから転載>訂正しました。 2014/09/30(Tue) 21:57:32 [ No.4879 ] |
旧三井鉱業所病院(一坑病院)の平面図見ました。
とても懐かしく、この病院に通院していた頃を 思い出します。 思えば、昭和40年(当時10歳)頃から妹を連れて二人で 頼城から一坑病院まで病院送迎バスで何年か通院して いました。 眼科に通っていましたので、図面どおり玄関から左奥まで 入ったところに眼科があります。眼科の診察室まで行くのに薄暗かったのを覚えています。 待合室は玄関入ってすぐ左にあり、売店は右へかなり行った場所にありました。これも図面どおりです。 旧一坑病院を知っている方は、もう少ないでしょうね? 2014/09/24(Wed) 12:15:11 [ No.4870 ]
kagemaru さん、半世紀前の写真戴きました。
今週末にスキャンして来週にはお返しできると思います。 有難う御座います。 そうですか旧1坑病院に通院されてましたか。 私のかすかな記憶にあるのは、時々吹き出る蒸気と薬品の匂いでしょうか。 小学4年生の頃に友達が振り回しているうちに掴手が外れて 飛んできた折り畳み傘の金属の柄が頭頂部に当たり 一坑病院で見てもらった記憶があります。 先生曰く、「うんこれは穴が開いているな。」 私「でどうなるんでしょう。」 先生「ほっとけばいい、勝手に塞がるから」 私「・・・」(=゜◇゜=) 2014/09/24(Wed) 12:48:45 [ No.4871 ]
写真は急ぎませんので、時間がある時にでも返送
して下さい。 私は、病院勤めしていましたので、鉱業所病院については 何か気になります。頼城に住んでいたので、二坑病院の記憶 は、通学路の近くが病院だったのを、小学1〜2年の頃、覚えています。 その後、閉院となり、跡地には三井建設それとも頼山荘 だったかな〜? 誰か覚えている方は、居ますか? 2014/09/24(Wed) 21:26:21 [ No.4872 ] |
中の丘新生町、昭和38年の8mmです。
当時のFUJICAシングル8版でしょうか? ほのぼのした愛情溢れる家族ビデオです。 10MBあります。320*240dpiの小さめの画面で見ましょう。 直接下記URLをクリックするか、 右クリック「名前をつけてリンク先を保存」してから見てください。 http://aatama.saloon.jp/ashibetu/movie/8mmmovie-s38MS.wmv 2014/09/21(Sun) 01:20:42 [ No.4867 ]
編集お疲れ様でした。
若干訂正を。 実は映ってるのは兄(S34年2月生)でした。(^^ゞ なのでS34年秋?S35年春?? 私には子が無いものですから成長過程がよく分かりませんが、歩けるのって1歳 くらいでしょうかね〜?? 周囲の状況から春か秋のどちらか・・・、春でしょうかね? あ、フィルムの箱に書いてあるかも? 実家に行ったとき確認してみます。 2014/09/21(Sun) 11:13:03 [ No.4868 ]
あっそうだ、全3部作の最後だから、昭和35年版でした。
2番目と3番目が順番が入れ替わってました。 とここまでは内輪の話。 皆さんの反応を見てみましょう。 2014/09/21(Sun) 16:32:16 [ No.4869 ] |
たまさんw完全には程遠い半復帰です。皆さんよろしくお願いします。songbird.ciao.jp
2014/09/21(Sun) 01:00:51 [ No.4865 ]
http://songbird.ciao.jp/info/
復帰そして新規開店おめでとう御座います。 ああ良かった・・。 それにしても早すぎ。(=゜◇゜=) 2014/09/21(Sun) 01:07:50 [ No.4866 ] |
芦別 森林鉄道S31年7月30日の貴重な珍しい写真を見て驚きと懐かしさでいっぱいです。
私が見た限りでは、写っている場所は、頼城東町12丁目の端の方かと思います。私は昭和30年生まれで、5〜6歳頃、豆列車と称して走っていたのを記憶してます。 2014/09/17(Wed) 10:38:01 [ No.4859 ]
kagemaruさん投稿有難う御座います。
すごいでしょ、MSさんの森林鉄道写真。 場所についてはいろいろ意見があるようです。 どこかで語り合えたらいいですね! 2014/09/17(Wed) 12:39:24 [ No.4861 ]
ありがとうございます。
撮影した父も喜んでいることと思います。 S37年生まれの私にはさっぱり??ですが・・・。 2014/09/17(Wed) 18:28:41 [ No.4863 ]
MSさんの森林鉄道の写真すごいです・・・
森林鉄道と関係しているかもしれませんが、緑泉緑町の外れ から東頼城に向かう際、赤鉄橋があり頼城では少し有名なくわがた採りの場所です。昭和42年〜44年頃よく採りに行った記憶があります。何年か前に滝川FM:Gskyでもとりあげていてビックリしました。今思えば、あの赤鉄橋は森林鉄道の名残り だったのかと思うのですが・・・ 2014/09/18(Thu) 10:24:04 [ No.4864 ] |
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